ワンダフルライフ
ようやく見た
連休中の深夜に見た。是枝裕和監督の作品は比較的見ることが多いが、この作品はこれまで見よう見ようと思っていながらなかなかDVD等を準備するに至らず、数ヶ月前に一念発起して購入したは良いが、すぐには見ずにしまっておいたのだった。今回一人で深夜に鑑賞しながら、ようやく見た、宿題を一つ片付けたという気がした。
実は、映画の方は長らく鑑賞する機会を作らなかったのだが、先に小説版の方を読んでいたのだ。高校生くらいの時だっただろうか、本屋で見つけた本を装丁が気に入って買ったのだが、物語としても引き込まれ何度か読み返したのを覚えている。
その時、映画も見てみたいと思ったかどうかは忘れてしまったが、なかなか見る機会がなかった。(是枝作品は話題になった「誰も知らない」で初めて鑑賞した。こちらも印象に残った作品だった。)で、いつかは見ようと思いつつ20年経ってしまったわけだが、今回色々と思うところもありようやく重い腰を上げて見てみたと言うわけなのだ。
この物語の(ある種)の冷酷さみたいなもの
なぜこんなに時間が経ってから鑑賞することになったのかうまく説明できない。この作品の重要な設定、「一番の思い出ひとつを選んで、その思い出だけと共に永遠の眠りにつく」というのに、すでに高校生の頃から多少の恐怖を覚えていたのかもしれないなと今改めて思った。映画の中でなかなか思い出を選べなかったあの人と同じように。そういった思い出が作れなかった人、自分の思っていた人生と現実の人生は乖離していたことを(死んでから)思い知らされることになった人にとってはなんとも残酷な決まりではないかと思うのだ。
序盤に職員が集まって検討会をしている時に、死者の一人がのべた「生きた証」という言葉に対して「そんなもの残せるような人はほとんどいない、死んでからそんなこと言ってるようじゃ遅いんだよ」という意味のセリフがある。これは残酷けれども、真実に近いことを言っているなと思う。このセリフは確か、小説の方にもあったような気がする。
どんな生を歩んできたのかは人それぞれだろう。中にはすぐに思い出を選べる人もいるかもしれないし、いくつかの中から迷うけれども最終的には選べる人もいるだろう。でも、もし自分が本当に一つもそんな思い出を見出すことができなかったら?人生のビデオを見せられて、改めて自分の人生に生きること(生きたこと)の意味や意義を見出すことができなかったら、いったいその人はどうすれば良いのだろうか?そんな人には、全てを忘れて眠りについたり何か別の、楽しかったり安らかになったりする思い出をでっち上げて眠りについてもらってもいいんじゃ無いだろうか?その方がその人にとっても良いのでは無いのか?高校生の頃から、そんな疑問が消えなかった。
それでも、この問いかけは重要だと思った
若い人としての人生は大体消費してきてしまった今、この映画を見ることには、やはり少し勇気がいった。主観的にも、多分客観的にもそこまで辛い人生、苦難の人生を歩んできたという気はしない。それでも、やはり人生の終わりを考えた時に、後悔の無いような時間を過ごしてきたのかと言われた時に、全くたじろがないことはないと思う。いざ本当に死を意識したら、これまでの人生についての悔いや後悔が押し寄せてきてしまうかもしれない。
それでも生きたことの意味を自らに問いかけることは必要なのだろうか?時には辛いかもしれないけれど、そうしなければいけないのだろうか?
「生きた証」と言い出してなかなか思い出を決めきれず、自分の人生に対して後悔の念に苛まれていた渡辺さんの選択は、一つの指針になると思う。何か大きな物事、他人からも承認を得られるような出来事を探し続けていた渡辺さんは、最終的に歳を取った後の妻との思い出を選ぶ。彼は選ぶ過程で望月が妻の元婚約者だったことを洞察し、彼に手紙を残して行った。色々とみっともない役回りになった渡辺だったが、望月に手紙で感謝を伝えていた。彼は良い人だったし、自分の人生を十分に生きたと言ってもよい人なのではないかと思う。
ただ、多少ひねくれた私は、高校生の時こう思った「彼は結婚もでき、妻と晩年まで連れ添い仲良く暮らすことができた、幸運な人だった。生きた証を選ぼうと探し迷っていたのは贅沢で、もっと孤独で友人も家族もいない辛い人生を歩んだ人は何かを選べるのか」
今では多少考えも違ってきた。人生はもちろん人によってだいぶ幸運や不運の量は異なるが、それでも各人が生まれてきた意義を見出し、人生を肯定することはできるのではないかと思う。どちらかと言えば思わずにはいられないというか、そうであって欲しいという感じかもしれないが。劇中でも、辛い人生を歩んできたであろう人が子供の頃の一つの思い出を選んでいたり、そういった描写があった。それは、見る人によっては辛く悲しむべきことかもしれないが、それでもその人の人生を肯定すること、生まれてきてよかったと考えることはできるのではないか。
これは、正しい、正しくないの問題ではなく、態度の問題なのかもしれない。人生は非常に辛い場合もあるかもしれないが、その人の人生の意味を見出し肯定するものが必ず見出されるべきであるという態度。まさしく劇中の施設がやっていることだ。ちょっとうまく言えないけれど。人生を否定するのではなく、最後には肯定するという態度。
映画を見終わって一つの考えが浮かんだ。不謹慎とか考えが浅いを思われるかもしれないが許してほしい。世の中には様々な困難や障害を抱えて生まれてくる方がいるし、現に困難や障害を抱えて生きている方がいる。他人と比較しての悦楽、幸福度であったり、社会的に承認称賛されるような業績、何かの達成、成功という観点からしたら、そう言ったものを得るのは難しいかもしれない。しかし他人との比較からはそうであっても、人生に意味を与え、人生を肯定することは可能であるしそういう態度で接することこそが、人として大事なことなのではないか。そういった態度で自分やあるいは他者の人生を見つめ直せば、人生に対するより深い洞察を得ることができるのではないか。
死んだ後に本当にあの施設に行くのかはわからない。でも、自分や他者の死に直面する時(あるいは本当に死んだ後にいく施設があった時)に困らないために、この映画を見ておくのが良いんじゃないかと思った。
人形の国 #8
なんだかんだと買ってしまう感
出るのはわりとゆっくり目のように思う。セリフが少なく、風景の絵も多いため作品が「疎」な感じを受けなくもない。それでも、風景も含めて絵のもつ力に負けて買い続けてしまう感じもした作品だった。実際に、絵の彩色画や何気ない風景の一カットを見ていくのがとても楽しい作風なのだ。
帝国側の人間模様もより活発に
作品の最初の方では、一族全員を殺されて帰る国がなくなってしまったエスローの視点で物語を見るしかなく、帝国側で感情移入できる要素があまりなかった。が、話が進むに連れて、帝国側の登場人物たちが中心となった、帝国側のいろいろなお話のパートはどんどん増えていったように思う。
かぐや様は告らせたい #21
表紙の圭の可愛さが全て
この21巻の最大の魅力は、表紙の圭だろう。何だこの可愛さは!?
右手の親指と人差し指が微妙にクロスして、口の前でポーズを取っている、神絵だろうこれは。この絵のポスター欲しい。
最初の話は三年生たちの卒業と石上の告白、そして失恋だが、いつになくストレートな青春劇だった印象だ。ストレートすぎて歳取った中年にはややのめり込めない感じもしたのだが、アカ先生は本当はストレートでグイグイ押していきたい漫画家なのではないか?とも思った。頭ひねった感じの設定とかトリビアとか絶妙なギャグとかでいつも楽しませてもらっているが、本当は直球勝負が一番好きなのでは。
そして、やはり思ったが自分は子安つばめ先輩的な女性ではなくミコ的な子の方がだいぶ好きなんだと思った。ミコと白銀の生徒会室の会話が一番面白かった。この組み合わせは度々出てくるがやはり好きな描写だ。
ラーメン四天王の話が地味に続いてて、しかもマシマシとサブちゃんに昔付き合ってた設定みたいなのまであった。引き出し広いな。
「推しの子」#3と比較してしまう
ただ、やはり思ってしまうのだが、この21巻は同日発売だった「推しの子」3巻と比較するとどうもパンチが弱い気がするのだ・・・どちらの漫画も発売の1〜2ヶ月前からソワソワしだしてかなり期待値上がった上で発売と同時に即購入した。推しの子は想像以上の面白さだったが、かぐや様の方の盛り上がりが、今ひとつだったようにどうしても感じてしまう。ただ、面白くなかったわけではないし何度か読み返しているのだが、数巻前の神がかった感じがやや薄らいでしまっているのが気になる。
ただ、これからクライマックスに向けて帝も現れたことだし、引き続き次の発売日を楽しみにしていることには変わりない。W連載なうえに他にも色々引き受けてしまっているアカ先生には、お体をお大事に、頑張ってください、と言いたい。