読後感ニッキ

最近読んだ本の感想など

ネットのバカ

 

ネットのバカ (新潮新書)

ネットのバカ (新潮新書)

 

 

 

過去にも、インターネットを使っている人々の愚かさ加減を指摘して物議を醸した著者の新しい新書。確かに、世の中に住む人々が品行方正でもすごい知的でもないのなら、そんな私達が使うインターネット上にエロ、グロ、ゴシップがあふれてしまうのも、むべなるかな。

ついついくだらないネットサーフィンに時間を費やしてしまったり、新しいネットサービスに飛びついてしまったり、SNSで知的に見られるように格好つけてしまったりしがちになる自分を省み頭を冷やすのに有効な新書かと。

 

原発広告

原発広告 本間龍 亜紀書房

原発広告

2011年3月11日の大震災と、福島の原発事故が起こる前、日本の新聞やテレビ、雑誌等には原発の意義や安全性を宣伝する広告であふれていた。自己から三年経ったいまでも、それらの広告は姿を消したままで、かつてあれほどまでに身の回りにあふれていたのを思い出すことは困難だ。博報堂に勤務していた著者は、これらの原発広告が電力会社等のいわゆる「原子力村」の豊富な資金力を基に、実際の原発の危険性や問題点を隠蔽し、原発推進の政策に国民的な支持、合意を作り出すために用いられていたことを、過去の原発広告を紹介しながら主張している。

確かに、本書に紹介されている広告は、事故後の現在の視点でみると、原発を根拠無しに喧伝しているようにみえる。そもそも独占市場の電力会社が多大な広告費を使っていたことも、昔から言われてきたことではあるが、問題である。幾つかの新聞広告やテレビCMは私も現に見たことがあったものだった。怖いなと思ったのは、事故が起こる前までは、それらについて今改めて見た時程の違和感や問題意識を持たなかったこと、広告で主張されていることを、全てではないにしろ何となくそうなんだろうと思ってしまっていたことだ。また、事故後これらの広告がすべてメディアから消え、過去の広告も容易には見られないようになってしまっていることに、広告を出していた側の小汚さを感じてしまった。

著者はこれらの原発広告を戦中の国内やナチスドイツの情報統制やプロパガンダとの類似点を指摘しながら糾弾している。やや一方的な見方に感じる点や後だしじゃんけん的な感じも受けたが、原発に限らず、巨額のお金が動く広告業界の様態や問題点を解説した本としてもおもしろいと思った。

原爆投下とアメリカ人の核認識

原爆投下とアメリカ人の核認識 マイケル ゴーディン 彩流社

原爆投下とアメリカ人の核認識: 通常兵器から「核」兵器へ

拾い読みになってしまったが、最も大事なことは表紙に書かれている通り、核兵器はいつから「特別な兵器」であると認識されたかについて解説されている。現代を生きる私たちには、核兵器はたの通常の兵器とは明らかに異なる兵器であることは半ば自明のことであり、冷戦時代にはその「常識」が社会や文化の隅々まで影響を与えていた。現代でも、核の拡散は主要な政治テーマの一つでもある。しかし、じっさいのところこの「常識」はいったいどの時点で人々のあいだで認識されるようになったのだろう。私も何となく、原爆ははじめから特別な兵器でありそれは自明のことだったかのように考えていたが、原爆投下を決断したアメリカの政治家たちが、最初から原爆がそれ単体で戦争を集結させる力があるほどの「決戦兵器」であると認識していた訳ではなかったと著者は説明する。原爆を投下された日本が、8月15日に投降したことで、原爆は特別な兵器になったのだ。

原爆が、最初は通常兵器と同じと考えられていたことの傍証の一つとして、著者は長崎への原爆投下に際して現場兵士たちの裁量権が大きかったことを挙げている。この爆撃作戦に際して、標的の一つであった小倉は、天候を理由とした現場指揮官の判断により標的となるのを免れ、代わりに長崎に原爆が投下された。その他にもいくつもの「命令違反」があったことを挙げ、このような現場の裁量が大きかったのは、この時点では原爆は通常兵器と同じ認識を受けていたからだと結論している。

小倉に原爆が投下されていれば、祖母の実家をはじめとして多くの親戚にも影響を及ぼしていたはずで、私の人生も多少の違いが生まれていたのではないかと、やや関係ないことだが考え込んでしまった。